スターシード・アンカー【後編】先祖のカルマの清算に向かう取り組み
『スターシード・アンカー【中編】自分の意思は遮断され、追体験を生きてカルマを知る』からの続きです。
先祖のカルマ解消への取り組み
30歳からスターシード・アンカーとしての目覚めの旅が始まり、50歳になって、ようやく先祖のカルマ解消のためにすべきことへの導きが入りました。冗談抜きで長過ぎでした。しかし、カルマ解消を可能にするためには、20年という期間が妥当であったと思わなくもありません。
ようやくお役目を完了させることを許された訳ですが、先祖のカルマ解消が “All completed!!” と断言できるまでには、カルマ解消への取り組みに1年はかかりました。気の進まないことへ向き合わなくてはならないことばかりでしたが、それが私に託されたことなのでがんばりました!
① 母の弟家族への対応
カルマの見極め
祖母の生涯で最大の後悔と言えば、息子と絶縁状態のまま亡くなってしまったことでした。この出来事は、娘である母をも巻き込み、孫である私達にもとても複雑な気持ちを残しました。
絶縁になってから5年後に祖母が亡くなった時、近くで暮らしながら年老いた親を5年も無視していたことや、私の両親へ一言も無く祖母の通帳を必死に探したりする叔父夫婦のことが信じられなくて、祖母の無念を思うと、余計に許せない気持ちが邪魔をして、悲しみに浸っていられなかったことを覚えています。
- 夫の戦死という悲しみを乗り越えて、女手一つで育ててきた息子との親子関係にヒビが入るようなことが待ち受けているとは。
- 親子を絶縁させる原因となるような人と息子が結婚するとは。
- その30年後に本当に絶縁状態になってしまうとは。
- そして関係の修復をできずに人生が終わってしまうとは。
祖母も自分の人生にこのような悲劇が起こるとは思ってもなかったことでしょう。どんなに苦しい状況でも乗り越えてきた祖母でしたが、息子と嫁という近しい存在との間にできた溝は、生前にクリアできなかった課題となってしまいました。
この課題によって、孫の私たちの心にも儚さや寂しさが刻まれました。まだ子供だった私たちには、大人の都合に入り込むことはできず、従姉妹同士も疎遠になってしまったことを受け入れるしかありませんでした。
「なんであの人達はいつもおばあちゃんと揉めているのだろう?どうしておばあちゃんの悪口を私にまで言うのだろう?」と、私が子供心に感じていた祖母と叔父夫婦との間にあった ”不穏なエネルギー” こそが、私が解消しなければならない先祖のカルマなるものでした。
カルマが解消されるための取り組み
祖母と叔父夫婦との間にあった ”不穏なエネルギー” とは、いわゆる ”嫁姑問題” という人類の永遠のテーマと言えるでしょう。祖母の気持ちになって考えた結果、
- 祖母に対する叔父家族の誤解した思い込みを説く。
- 双方の見解の相違を受け入れる。
- 許しの境地に至り、過去の痛みと和解する気持ちになる。
これらを叔父家族と分かち合えることを目指して、成り行きに身を任せながら、自分のできる限りの気持ちを伝えることをしていきました。つまり、仲裁の役目を果たす訳ですが、根深い相手の気持ちと向き合うことは避けては通れないことの為、ものすごく気が重くなりました。
年老いた母の気持ちは、「昔のことをわざわざほじくり返すようなことはしなくてもいい。」というものでしたが、「いつか対応しなければならない。」と思っていた私の魂は、「今、このタイミングを逃してはいけない。」という思いが大きくなり、母を安心させて、”祖母と絶縁に至るまでの叔母の言い分” を聞く覚悟を決めました。
お墓参りでの叔父夫婦との遭遇は、私と従姉妹が ”先祖のカルマを話し合う” ことへの導きでもありました。
お墓参りでの出来事
20数年という年月は、例え親戚でもお互いに誰だか認識できないくらい他人になってしまうものなのだと、今回のことで感じました。そして、その長い年月によって嫁姑問題の当事者であった叔母は癒やされたのか、わだかまりなどなかったかのように、とても明るくフレンドリーに色々話してきました。逆に、母と弟である叔父の二人には距離を感じるぎこちなさがありましたが。
叔母から従姉妹達の近況を聞いた時、祖母に対して若干の寂しさを感じました。なぜなら、従姉妹達はそれぞれ結婚し、子供を持ち、海外赴任するような活躍をし、開かれた人生を歩んできていることを知ると、正直、複雑な気持ちになり、腹立だしくもなりました。それはそうでしょう、私の立場だったら。
「私が自分を生きられなくなってもがいていた20年の間、おばあちゃんは全面的に従姉妹達の人生をサポートしてたんだ・・・おばあちゃんは、結局は息子が大事だったんだ。どれだけ娘が支えてきたとしても、娘の子供達のことはどうでもよかったんだ・・・ちょっと酷過ぎないか?娘は頼るだけで長男を大切にする昔の人の男尊女卑の考えか。」と、心の中で思いを吐いていました。
人生のイベントが何もない私自身については何も話すことはないので、姉の近況しか話さない私に疑問を感じた叔母から、「結婚は?」と聞かれました。私が最も苦しくなる一番聞かれても困ることをよくぞ話題にしてくれました!
「おばあちゃんの未亡人として生きた人生の追体験をさせられてたとも知らず、長年付き合っていた彼との突然の別れが起きたり、その後いっさい出会いがなくて、そんな状況で立場のない思いを経験したり、うつ病にまでなったりして苦しんできました。」と言いたい気持ちでしたが、久々に再会した人に言うことではないので、「あ、してないです。」と、冷静に答え話題を変えました。
疑問に思われた私の人生については、後日、従姉妹と話した時に伝えることができ、それを真摯に受け止めてくれたことは想定外に嬉しかったです。
最後に叔母が、転勤でロンドンで暮らしてる従姉妹に連絡してみるよう言ってきたので、連絡先を教えてもらい、20数年ぶりにビデオ通話でいとこと再会を果たしました。
いよいよお役目を果たす時が!
避けたいけれど、避けては通れない ”祖母と絶縁に至るまでの叔母の言い分” を聞く覚悟を決めたにしても、重たい気持ちに変わりはありませんでした。
なぜなら、従姉妹は母親の不満を聞いて育ったので、母親のことが可哀想という思いから、母親の話を鵜呑みにして咀嚼することなく、一方的な見解で思ったことをダイレクトに言うため、嫌な気持ちになることが分かっていたからです。
しかし本人に悪気はなく、人から嫌われてしまうという寂しさを他の人間関係で味わっていることを知ったので、私の気持ちも分散されました。
祖母がクリアできなかった嫁姑問題という課題について、祖母について、やはり一方的な見解で捉えた発想の意見を聞くことになりました。更に私の母についてまで、もっと驚くことに、自分の父親についても批判していました。つまり、祖母の人間性によって母と叔父もダメだ、という発想で、そんな人達に囲まれた母親がどれだけ苦労してきたか?ということを事細かに覚えていて訴えていました。
私はとにかく全部聞いてあげるしかないと覚悟を決めていたので、聞き捨てならないという気持ちになることも、人のことを勝手に決めつけていることも、感情が巻き込まれないようにして忍耐強く聞きました。
分かったことは、私は娘の孫だったので祖母と近しい関係を築いていましたが、従姉妹は嫁と姑という関係を通した孫だったので、祖母の本質的な部分が見れなかったということ。そして結局は、叔父と叔母の夫婦関係が最初から上手くいってなかったこと、経済的に苦しく祖母の経済力をアテにしていたこと、などから不満が募っていったということだったのだと。
お互いに覚えている共通の出来事もあれば、お互いに知らなかったこともたくさんあったので、叔母や従姉妹が味わった辛さに理解を示してあげられました。そして、私たち家族が直面していたこと、私たちが感じていたこと、祖母や母が当時言っていたこと、母も叔父と叔母の言葉に傷付いていたこと、などを伝えることもできました。
すると、従姉妹の中で事実だと思っていた記憶が、違う角度から見ると自分が信じていたことが全てではない、と受け止めてくれたようで、「大人達も生きることに必死で不器用だった。」と理解してあげて、「私たちはわだかまりを終わりにしよう!」と和解に至る事ができました。
それからは、子供時代の懐かしい思い出、私が結婚とは無縁の20年間を過ごしていたこと、従姉妹のロンドンの生活や子供達の話、好きな韓国ドラマについて、等々、たわいも無いことで7時間‼︎も話しました。そして、祖母がいつも私たちにしてくれたことは、普通のおばあさんだったらできないすごいことだった、と認識し合うことができました。
祖母のカルマ「満つれば虧くる」
祖母が生きた時代は本当に大変だったと思います。夫が戦死しなかったら、息子と絶縁するようなことにはならなかったかもしれません。祖母の必死の努力で、都内に家を建て、子供達を学校に通わせ、息子には車を買ってあげられるまでの経済力を築き上げました。その分、家でゆっくり過ごす時間などなく働き続けて来た訳ですが、その結果、家庭的な優しい母親ではなく、実業家として厳しさと強さを持つ女性となっていきました。
日本が終戦を迎えた時、私の母は4歳だったので、満州からの引き上げ時の赤土の山を雨の中歩いたことや、船底で何ヶ月も過ごした時のことから、夫の戦死の知らせを受け取ってずっと泣いていた母親の姿なども覚えていました。ですから、祖母が自分達が生きるために一生懸命働いていたことを理解して、祖母にはずっと協力的に生きてきました。
しかし、まだ2歳だった叔父は、どれだけ辛い出来事が起こり、どれだけの思いで祖母が努力をすることになったのかを知らない、母親に甘えたい真っ盛りの年頃だったので、母親への愛情欲求が満たされずに育ってしまったのだと思います。そして高校生になると、愛情の裏返しの矛先が、遊び人の世界で気を晴らすようになっていったのかもしれません。そして、親の経済力を求めるような生き方になり、祖母の状況を理解できない人と結婚して、親と疎遠になるようなことになりました。
土の時代を象徴するような山あり谷ありの人生を送った祖母は、上手くいかなかった息子夫婦との関係について「満つれば虧くる。」と、よく言っていました。そのように自分に言い聞かせてたのかもしれません。
祖母のカルマが解消したサイン
お墓参りで再会した翌週に、一度叔父の家を訪れてみました。しかし留守だったので、メッセージを添えた手土産を置いて帰りました。叔母からの折り返しの電話では、自らの手術を控えているとのことだったので、改めて会うことを遠慮しました。
その後、従姉妹とのビデオ通話での再会から2ヶ月が過ぎたある日、私は祖母と叔父が笑い合ってる夢を見ました。
祖母の家のリビングでくつろいでいる時に、叔父が、いつものように玄関のチャイムを鳴らさず当たり前に家に入ってきました。リビングにはニコニコしている祖母がいて、叔父もニコニコしながらこちらへ来ました。母や姉、そして亡くなった父に従姉妹達も姿は見えないけど一緒に居るようでした。夢に祖母が出てくるのは久しぶりだったことと、情景や感覚が余りにリアルだったので、ビックリして目を覚ましてしまいました。目を覚ましてもしばらく息が上がってるくらいの驚きでした。
そしてその日の午後、叔母からメールが届いていました。「Sevesoちゃんも大変だったのね。ロンドンにいる娘から聞きました。これからは皆、幸せに生きましょう!」という内容には更に驚きました。
カルマが解消するために目指した『許しの境地に至り、過去の痛みと和解する気持ちになる。』ことが達成されたお知らせだと思いました。ものすごく温かいものが私の心を包み込み、そして涙が出ていました。
もしも、私の人生が順調に進んでいたら、”祖母と絶縁に至るまでの叔母の言い分” を聞く気にもならなかったし、素直に受け止めることもできなかったのかもしれません。20年という人生の挫折を経験したことで、心の深い所まで見つめることができ、また、明るく元気なイメージだった祖母が見えないところで耐えていた苦しみを理解するに至り、スターシード・アンカーとして、タイミングをキャッチしてお役目を果たすことができたのだと思います。
② 断捨離の最終章

私が病的と言える断捨離意識に襲われ始めたのは、5年に及ぶアメリカ生活を終わらせて日本に戻ってきてからでした。
私がアメリカにいる間に、年老いた祖母と一緒に暮らすために両親が祖母の家へ引越しました。自分の部屋がない実家に戻った私は、祖母の部屋で寝起きをしていくうちに、祖母の思い出が色濃く残る家のエネルギーを一気に受け取ったようです。
「家をなんとかしなければ。」「このままの状態で実家を離れることはできない。」という強迫観念に駆られた責任を感じ、「まず、やらなければならないことがある。」という意識が強くなり、自分では背負い切れない大きなものを背負わされてしまったような重たい感覚が伸し掛かり、自分の人生を進めないパラレルワールドにハマり込んで、家の中にたくさん残っている祖母のコレクションを骨董品屋に買取してもらったり、バザーに寄付したり、粗大ゴミに出したり、常に ”片付け&模様替え” を繰り返し行う日々が、結果20年も続きました。
物には持ち主のエネルギーが宿る
美的なこだわりの強かった祖母は、家具・絵画・インテリア雑貨・洋服・着物・ジュエリー・バッグ・壺・瀬戸物に至るまで、自分で勝ち得た経済力の現れのように、ないものは無いというくらい集まっていきました。
これぞ ”土の時代の象徴” とも言える ”物質主義” のど真ん中を生きていた祖母だった訳ですが、祖母の亡き後は、どんなにいいものでも自分達の趣味とは違うので、高価なものであればある程、そのもののエネルギーの強さの影響は大きく、次第に私自身のエネルギーがどんどん弱まっていく、という現象が起こり始めました。
更に、祖母の寝室を自分の部屋として使うようになると、朝目が覚めると、”寂しさ・悲しさ・忍耐・孤独感・罪悪感” などの感情が、”わざわざ” という感じに湧き上がって来て、益々エネルギーが枯渇していきました。
どうやらその部屋にはまだ祖母のエネルギーが残っていたのでしょう。
家では仕事の愚痴をこぼさなかった祖母は、寝ている時によく寝言を言っていました。その声や口調がおどろおどろしいもので、その寝言を初めて聞いた時、どこから聞こえてきているのか?妖怪か幽霊が出たのか?と、ものすごく怖くなって身震いしてしまう程でした。それくらい戦後の混沌を生き抜くのは大変だったのでしょう。私たちには見せなかった苦しさや悔しさに耐えてきた祖母の感情を、エンパス能力が開花した私はどんどん受け取ってしまったようです。
こうして古い時代のエネルギーに覆われて、「なぜか自由になれない。簡単に実家を出ていくことができない。この家に残された祖母のものをキレイに浄化する責任を果たさない限り、自分の人生を生きることは許されない。」という意識が入り込み、自ら抑圧の中に閉じ込められていくようでした。
古い時代のエネルギーを清算する時が来た!
祖母がこだわりを持って建てた家そして趣味で集めたものには、祖母の人生が深く刻まれていました。苦しさを乗り越え人生を謳歌し人生を生ききった祖母でしたが、やはり私たちには計り知れない癒し切れなかった苦しさは、重たいエネルギーのカルマとなり、スターシード・アンカーである私にしっかりと委ねてきました。
そしてそのカルマを解消するチャンスが、20数年ぶりの叔父との再会の後に訪れました!
アメリカへ
私が30歳から始まった『未亡人人生の忍耐と寂しさ&死んだつもりで生きる』という祖父母の苦しさを存分に味わう追体験の中に、祖母の所持品から放たれる癒し切れなかった重たいエネルギーによる抑圧も含まれていた訳ですが、生きた心地がしない生き方から抜け出そう!と目が覚めた時、思い切って実家を売り、姉のアメリカ人の夫がアメリカへ帰国することを頼りにアメリカ移住を計画し、家財道具のほとんどを2ヶ月かけて日本からアメリカへ送りました。
しかし、夫婦である姉でさえビザが取れるまでに3年かかり、その内に母の体調が思わしくないことになったり、また世界中がパンデミックになるなど、私と母のアメリカ移住を断念することになっただけでなく、2018年に送った荷物が2023年までの5年間も大きな倉庫の中に眠ったままになっていました。
倉庫代と倉庫の中で眠っている荷物のことが常に気がかりでしたが、海外渡航が厳しくなった状況により身動きが取れませんでした。アメリカで暮らす姉にも倉庫の整理を頼みましたが、ほとんどの物が祖母や両親の食器・飾り物・絵画などで一人の判断では全てを片付けることは難しく、結局手付かずの状態が続きました。
チャンス到来!
パンデミックによるアメリカ経済の打撃は家賃のえげつない高騰に繋がり、姉夫婦も引越せざるを得なくなる事態が生じ、倉庫代も同様に値上がったということで、いよいよ何かしら対応しなければならない時が来ました。
そして急遽、私はフロリダへ渡航し引越しの手伝いを終わらせると、残りの日々は倉庫へ通う毎日を過ごし、”荷物の整理・処分・売りに出す・日本へ返送” まで、1ヶ月の滞在期間でやり遂げました。
1日に15〜20箱を目安に整理&処分をしたので、倉庫に残っていた段ボール箱の数は100を超えていたと思います。
夏真のフロリダの炎天下での重労働は倒れてしまうくらい危険な暑さの上に、埃っぽい倉庫の中ではマスクをしていたので、水分補給は欠かせませんでした。
全身汗だくなのにトイレも近くなり、近くのガススタンドまでトイレを借りに運転し、ついでにドリンクを持ち帰る。途中ゴミが増えてくると、ゴミを車に積んで捨てに行く。倉庫を離れるその度、一旦出した段ボール箱をまた倉庫にしまい鍵を掛け、戻ると鍵を開けて段ボール箱を取り出す。という面倒臭いことを繰り返しました。
母も含め家族全員でアメリカへ移住する予定で送った荷物なので、段ボール箱を開けると、全てが実家にあった懐かしい物だらけで自然と涙が出てきました。それらを遠いアメリカ・フロリダの倉庫に5年間も眠らせてしまったとは・・・
懐かしい写真や手紙が出てくると、祖母も父もまだ元気に生きていた時代があったことを思い出し、いとこ達と毎年当たり前に過ごしていたお正月が平和で幸せだったこと、両親・親戚・友達の結婚式、彼と過ごしたアメリカ時代、などの懐かしさに愛おしくも切なくなり、すっかり忘れていた過去の自分の姿や出来事が甦ってくると、姉も私も不思議な気分になり自然と過去への癒しが行われていました。
そして、そのほとんどの思い出の品を悔いのない断捨離をすることができました。
大量にある和食器や陶器・豪華な日本人形や兜・帯や着物などの全てを日本に送り返すことは金銭的にも労力的にも不可能なので、母が持ち帰って欲しい物、姉が使いたい物、そして姉の義母とその友達が欲しい物を除いて、アメリカの骨董品を取り扱うお店に買取を依頼しました。
フロリダで過ごした2023年の夏は、日中は倉庫で作業し、夕方になると大量の段ボール箱を車に積んで姉の自宅まで運び、全ての品をフリーマーケットのように並べ直す。という地道な断捨離作業の毎日を過ごし、ビーチへ行く余裕など全くないあっという間の1ヶ月でした。(日本へ帰る前日にペディキュアに行く時間をかろうじて作れましたが。)
祖母のカルマが解消したサイン
真夏の炎天下の中で続けた地道な労働作業は根気と集中力を要することだったので、1ヶ月という限られた期間の間に成し遂げなければならないプレッシャーが精神的に研ぎ澄まされる領域に向かわせたのか、そして祖母が残した思い出の品々をいい形で手放すことができたのか、これまで私にのしかかっていたモヤがかった重たいエネルギーが自然と浄化されていった、という現象が起こりました。
その証拠に、義兄が本来の私の姿を初めて認めてくれました。そして、その変化に驚いていました。
義兄と初めて会ったのは15年も前のことですが、アメリカ人である義兄の目に映った私のイメージは「悲しい目をしてる」という人だったようで、そのことを姉から聞いた時はものすごくショックでした。なぜなら『私が築き上げてきた人生のコアの崩壊』と『突然占領してきた偏った思考』が同時多発して、プライベートも仕事も良縁のない不安と孤独と屈辱に耐えて生きた心地がしないことを、始めて会った人に見破られたことが、本当に ”自分が自分でなくなってしまった” ことを思い知らされたからでした。
常にモヤがかった重たいエネルギーが私を覆っていたために、私は暗い人、私は悲しみから抜け出せない人、という印象が義兄の中に出来上がってしまったようで、私の誠意や真心から言っていることも違う捉え方をされて伝わらず、こういったことが義兄のみならず世間の人々からも思ってもいない変な誤解をされることが続いて来たので、かなり悔しい思いをしてきました。
しかしフロリダ滞在中の私は、水を得た魚のようにレンタカーを乗りこなし、毎朝早起きしてウォーキングをして身体を整え、夕食の下準備をして、倉庫で作業し、重たい荷物を持ち帰り、品物を開封して並べ、人に譲る物、日本へ持ち帰る物、骨董品店に渡す物と分けてパッキングし直し、義兄のお母さんや妹さんや業者とも英語でやりとりし、倉庫を片付ける”ミッションをやり遂げた人!” としての姿を見せることができました。
私自身はやるべきことを終わらせるために地道な行動をしたまでなのですが、かつてアメリカで暮らしていた頃と似たような生き生きしい感覚を取り戻した感は確かにありました。自分でも感じられた軽やかになる変化は、”自分が思う本来の自分自身の姿” として、私のことを誤解して見ていた人が認めてくれたことで、本当に変わったことを実感することができました。そして、久しぶりに心からの喜びを感じることができた瞬間でもありました。
異国の倉庫に実家のほとんどの物を眠らせていた5年間の意味
そもそもなぜ実家の家財道具をごっそりアメリカまで送ったのか?それは家族全員でアメリカへ移住する予定だったからです。私の異様な20年を払拭するために大きな変化を起こす必要があるという魂からの思いを、私を支えてくれた家族も同意してくれた末の決断でした。
そんな私たち家族の決断を無計画で無謀なことと捉える人もいましたが、特に問題なく自分の人生と思える生き方をしてこられた人には理解できないことなのだと改めて思いました。
確かに、ビザの問題、多額の費用、移住後の生活、日本に残留する意識変換など、大きな変化を起こすことにはストレス要素が満載でした。結果的に、実家を手放したのに私は母と日本に残ることになりましたが、不思議と後悔はしていません。
姉夫婦は無事にアメリカで暮らすことができた訳ですし、日本ではシンプル&ミニマムなライフスタイルに変換できたことで、高齢になった母も気分を一新することに成功し、家族でアセンション意識の流れに乗ることができたのですから。
もしもアメリカ移住計画を誰も同意してくれなかったら?私は未だに鬱々としながら重たいエネルギーを抱えていたと思います。しかし、大きな変化を起こすことを実行できたおかげで、スターシード・アンカーとしてのお役目を果たすことができた上に、20年も重くのしかかっていたモヤを取り除くこともできました。
家族が同意してくれて、家を売るという一大決心を形にするために不動産会社を巡り、日本での仮住まいの家を探し、姉がアメリカ専門の引越し業者を比較検討して対応してくれて、2ヶ月後に届く荷物の受け入れのために義兄が一人先にアメリカへ戻って倉庫を探してくれて、そうしたらパンデミックが起きて、姉がアメリカへ移住するのに3年かかって、その直後から母の体調が不安定になってしまって、それからの2年で母の体調不良を乗り越えたけれど、私は母とアメリカ移住を断念して日本に残る決断をし・・・あっという間に5年が過ぎていました。
この間に日本から送った荷物のほとんどがずっと倉庫の中で眠っていた訳ですが、”5年という時間” と ”アメリカという距離” によって、”先祖の遺した品物” や ”各自の思い出” を手放すことへの罪悪感が薄れ、皆の執着を外すことができたのだと思います。
祖母の人生が詰まった品物を蔑ろにすることができない思いが、先祖のカルマとしてスターシード・アンカーの私が感じ取っていた訳ですが、それらを必要とする人々が見つけやすい骨董品店へ届けることで、先祖のカルマを清算することができました。まさかアメリカまで行って先祖のカルマの精算をするとは思ってもいませんでしたが。
③ マトリックスの抑圧を怖がらない
先祖が経験した苦しみを追体験して行くうちに、苦しみの根本要素は、形は違えどどれもマトリックス支配から波状したものだと分かっていきました。
祖母のエネルギーは社会における人々を通した三次元的な苦しみでしたが、祖父のエネルギーは社会をコントロールしている闇の存在をなんとなく知ってしまったような、黙っているしかない苦しみでした。
スターシード・アンカーとしての私のお役目が始まった当初に感じた「なんだかとても生き辛い」「心から通じ合えない」「本音を言うのはとても危険」という得体のしれない抑圧は、孤独感に包まれていく恐怖を感じるものでした。しかし、「もっと自由に生きていい」という価値観のアメリカ社会の中で5年間過ごせたことによって、お役目と並行して私の魂の目覚めも始まっていました。
目覚めが先に起きたはずなのに、日本に戻ると目覚めのパワーよりも抑圧のパワーの方が簡単に優勢になっていきました。が、そんな抑圧の水面下で「私は日本のことを実は知らないことばかりだ。」「日本のことをもっと知る必要がある。」という戦士のような意識が駆り立てられ、抑圧に耐えながら抑圧の本質を探究していく自分がいたので、余計に抑圧のパワーが激しくなっていったのだと思います。
『北風と太陽』で例えるなら・・・
”太陽” のような穏やかさには自然と心を開くけれど、”北風” のような抑圧に対しては本能的に頑なに抵抗を示してしまうので、 ”北風” は私を服従させようと益々激しく吹き荒れて、それでも絶対服従しない私に対して、得体のしれない抑圧が ”村八分の袋叩き” という形になって三次元世界で現れていた。
ということでした。
20年にも渡る祖父母の苦しみの追体験を通して、
- 私たち人間の意識を支配している闇の存在がいること
- その存在が作り出したマトリックスという支配された社会が抑圧そのものであること
- そのマトリックス意識に私たち人間はすっかり洗脳されてしまってきたこと
- その洗脳から外れた生き方をする人間は、闇の恰好の標的になってしまうこと
といった”抑圧の本質” を突き止める探究は進み、
- 私たちが遭遇するネガティブな現象
- 私たちが抱いてしまうネガティブな意識や感情
は、マトリックスの支配によって私たちの中にすでに内在されてしまっているネガティブエネルギーがトリガーとなり、引き起こっていることが分かりました。
なぜ、日本がここまでマトリックスの支配下に意識が縛られてしまったのか?
1940年代には原爆が初めて使用されて、高次元までその恐怖の波動が浸透しました。核の爆発はさざ波のように時空を超えて影響を与え、時空の裂け目に闇のポータルが生じて、ネガティブな存在たちが地球に入り込んでしまいました。(彼らは肉体を持たない存在で、憑依現象が増えたそうです。)すでにアセンションしている善良なE.Tである金星の5次元存在が接触してきましたが、政府はすでに、闇のE.Tたちと契約を結んでいました。舞台裏で行われたことなので、世間は認識していません。
エルドラ&シマーン氏「天からの施し」と13000年続く光の時代到来 by
茶柱御殿スピリチュアルラジオ#468
それ以降、理不尽な制限が年々増えていき、日本人は益々マトリックス支配の奴隷となっていった・・・ということです。
1940年代から地球は闇のE.Tに入り込まれましたが、同時に善良なE.Tによる監視も現在まで続けられてきました。
創造主は核への干渉をすることにし、それによって善良なE.Tである銀河世界連合は、地球上での核を使ったいかなる戦いにも干渉できる完全なる許可を持ちました。1%の闇の者たちが人類全体の自由意志を踏み躙ることは許されません。闇の支配によりネガティブな周波数となってしまった地球に対して、地球の周波数を上昇させるために高次元はあらゆる施しを行なってくれています。
その1つが、2012年以降、たくさんの高次元からの魂が地球にやってきています。地球の周波数を上昇させるために来た子供達の登場です。彼らは持ち越しているカルマが少ないため、周りの人々の周波数を引き上げてくれる存在ですが、彼らは純粋さゆえに闇と向き合う術を知らないため、彼ら(子供達)が安心できる環境が必要となります。
また、フォトンベルトやソーラーフラッシュも天からの施しです。虹色の光が銀河全体を包み、存在するすべての細胞や粒子をシフトさせるでしょう。この施しにより、私たちの多くは4〜4.4次元の波動状態となっているでしょう。0.1上昇するだけでも、一つの人生を費やすに値するほど大きなジャンプです。
星を支配しているネガティブな存在たちは、この波動周波数の上昇に耐えられません。地球のアセンションを早め、善良なE.Tたちとのコンタクトと共に明るい未来を生きるには、私たち人類が、全体として愛の周波数を高めて意識を上昇していくことが鍵となります。私たち人類は攻撃的な種族のため、ネガティブな感情や思考を手放しカルマを解消する意味を理解することも重要です。なぜなら、すべては私たちの波動次第となるからです。
エルドラ&シマーン氏「天からの施し」と13000年続く光の時代到来 by
茶柱御殿スピリチュアルラジオ#468
私が体験した数々のあり得ない苦しみは、自分がスターシードであり、先祖のカルマ解消を託されたスターシード・アンカーであるが故でした。その先祖のカルマを解消するには、戦後の苦しみのみならず、宇宙的な支配から目覚めていく要素も含まれていたために、とてもヘビーな道のりだったのかもしれません。
私はとかく記憶を消されたスターシードなので、「そうだった!」と思い出したというより、人生がスムーズに進まないことに疑問を抱き続けた結果、気付けたという感じでした。
記憶を消されていることで、マトリックスの洗脳から外れた生き方やマトリックスの抑圧に反発することを無意識に実行し、余計に苦しみが増幅したかのようでしたが、魂としての本能は消えることがなかったので、村八分の袋叩きというサイキックアタックにも耐え抜くことができたのでしょう。
祖父のカルマが解消したサイン
私の辿った道のりは、黙っていたらただ苦しみが残り更にネガティブな周波数を増やしてしまうだけになります。
マトリックスの支配によるネガティブ周波数が発動していることが理解できた以上、マトリックスの抑圧には屈しない!怖がらない!宇宙の真理からの言葉を話していく!という生き方をしていく決意に至りました。この決意こそ、カルマが解消したということではないでしょうか。
そして私というスターシードは、
「私が経験してきた闇を見つめて、その闇を通して光へ向かう。」
”見えにくい部分に光を当てること” が、私の使命なのかな?と、分かってきたような。。。気がします。
先祖のカルマからの学び
自分を見失う程に自分の意思で人生が切り開けなくなる時間が、まさか20年も続くとは思ってもいませんでした。
しかも、祖父母が耐えていた苦しみをわざわざ追体験して、先祖のカルマとやらの内容を把握し解消するミッションを遂行するために自分の意思がブロックされていたとは。今世でこんな厄介なミッションを遂行する計画を生まれる前に立てたなんて、よっぽどのマゾヒストではないか?と、自分自身のことが疑わしくもなりました。
祖父母が生きていた頃を思い出すと、私が一番人間らしく平和に暮らせていた時期であったと思います。そして、戦後の混沌を乗り越え、私たち孫が苦労を感じることのない状況を築き上げてくれた祖父母のことを無意識に尊敬していました。
それ故に、先祖の恩恵にあやかって私も充実した人生を歩むのは当然のことと思っていましたが、人間として疑いなく過ごせるのはアメリカ生活を終える30歳までというタイムリミットが来て、30歳から敢えて不運になる選択をしていくような年月は、魂の目覚めへの旅路の開始であったと思うと、生まれる前に立てた人生計画が余りにもパーフェクト&宇宙的で驚かされました。
先祖のカルマを通して学んだことは、
”カルマ” と聞くと、「何かとても悪いことをしたのか?」と思いがちですが、カルマ自体は、悪い業という意味ではなく、”生前にクリア出来なった課題” という意味であるということ。
そして、戦後80年になり忘れられかけていることを、私は改めて受け止めたような気持ちです。
地球ではこの後に及んで戦争をしている国があります。その国で生きる人々が、日本人と同じように苦しみを味わい、ネガティブ波動を抱えてしまっています。その苦しみが癒えるにはさらに長い年月がかかることを思うと、やはり、戦争を歴史の一つとした捉え方ではなく、なぜ戦争をするのか?疑問に思うべきだと思います。
そもそも人々は戦争など望んでいません。戦争を望んでいるのは闇に加担している一部の人々だけだということ。戦争で残るものとは?抑圧?カルマ?私たち人間にできることは、地球に蔓延る抑圧から目を覚まして、愛の周波数を高めて意識を上昇していくことです。それをすることで、アセンションとはどういうことなのか?改めて認識することにもなると思います。
先祖のカルマはどうやって託された?
私自身の経験を通して言えることは、先祖のカルマは私の潜在意識に刻まれる形で託されたと思います。
と言うのも、スターシード・アンカーとしてのお役目が始まる時、突然、偏った思考が占領してきたと思ったら、同時に自分の意思が遮断されて、そこから否が応でも先祖の人生の追体験を生きるしかなくなったからです。潜在意識にセットされたタイマーが作動したような、自動的に追体験が開始された感覚でした。
ただ、恐ろしいことに、自分の意思が遮断された要因には、私の場合、サイキックアタックも同時に起こっていたという・・・この影響が、追体験を更に過酷なものにしていった可能性大です。
スターシード・アンカーとしてのお役目と、スターシードとしての目覚めと、私を目覚めさせないためのサイキックアタックというトリプルセットは、記憶が消されたスターシードとしては、何が起こったのか思い出せないことで、なおさら我を失う程の混乱に陥ってしまったということでした。
その結果、魂の探究が深く深く掘り下げられていった訳ですが、
- 地球のアセンションに向けてネガティブな重たい周波数を手放す
- 重たい周波数を作り出しているマトリックスに気付いて、潜在意識をその洗脳から解く
というミッションを果たすために自分の意思を遮断する必要があったのかもしれません。
そう考えると、「先祖のカルマは、私自身が転生を繰り返す中で抱えてしまっていた記憶を浄化すべき項目だった。」とも捉えることができるのか?と、”卵が先か鶏が先か” 的な堂々巡りをしてしまうようなものに思えてきました。
私にはカルマなど無関係なことだと思っていました。しかし、これまでの謎に苦しんだ20年間は先祖のカルマの影響が関係していました。先祖のカルマの解消ができたことで地球のエネルギーを少しは軽くすることができたと思いたいです。
しかし、この20年は自分が自分ではない感覚に陥っていたため、自らのクリア出来なかった課題を残してしまったようにも思えなくありません。
「宇宙はジャッジしない。」と言いますが、二極性が存在する地球では、どうしても善悪のジャッジが付きまとい、簡単に重たい周波数が出来上がってしまいます。
私はスターシード・アンカーである限り、後世に託せる存在もいないので、自ら発してしまった重たい周波数を意識的に手放して潜在意識を浄化し統合していくことを率先してやり続けます。