スターシード・アンカー【中編】自分の意思は遮断され、追体験を生きてカルマを知る
『スターシード・アンカー【前編】先祖のカルマを託された魂。私がお役目に気付くまで』からの続きです。
突然占領してきた偏った思考
スターシードとしてスターシード・アンカーとしての目覚めへの道が開始される前後から、それまで目指していたことへの興味が打ち消されていくような、記憶をすり替えられたような、人格も書き換えられてしまったように、「自分の人生を生きてはいけない。やらなくてはならない何かを終わらせないといけない。」といった感覚が、私の思考を占領していきました。
そして、自分の未来を想像することも、思い描くことも、全くできなくなってしまいました。
その1:「誰にも頼らず、一人でも生きていけるように強い女性にならなくては」という自立への極端な意識
私が28歳になった時、アメリカに於いて学業と資格試験をパスし、念願の美容師として働くチャンスを得ました。美容師として働き始めると、何か見えない力に後押しされるように猛スピードで次から次へと願いが叶っていく不思議な時間を過ごしていました。しかし、30歳を目前にすると、その先の人生が思い描けなくなってしまうと同時に、これ以上生きることが苦しいと感じることが増して、目に見えない力が後押しではなく引きずり降ろしていくように真逆な時間へと変わってしまいました。
アメリカでの充実した毎日に終わりが近付いていることは、実質的なビザの問題があるので分かっていました。やっと美容師になったのに・・・彼ともしばらく離ればなれになってしまう・・・そういった思いが理由だったのか?
いや、それよりも、祖母の28歳からの人生が私の潜在意識に深く刻まれ、いつの間にか自分の人生に投影させて考えるようになっていたことが反映されての感覚だったのだと思います。
私の潜在意識には『祖母が28歳の時に未亡人となり、女手ひとつで子供を育てる人生が始まった。』という話が色濃く残っていました。それは、祖母が周りに勧められ、『戦後をどのように生き抜いてきたか?』を綴った自叙伝を書くのを手伝った時に、娘の母でさえ聞いたことのなかった話をたくさん聞いたからかもしれません。
”女手ひとつ” で子供を育て上げ、経済力のある自立した女性として生きた祖母の言葉が、受け止めきれない程の ”苦労と試練を乗り越える” という感覚となって私の中に浮上してきました。
その結果、「誰にも頼らず、一人で生きていけるよう強くならなければいけない」という意識に駆られ、日本に於いての美容師免許取得と仕事の確立を頑張るのですが、先の人生が思い描けなくなってしまうばかりで、意欲的になれなくなり、ただただ苦しいことに変わってしまうのでした。
また、20年前の日本の環境が「30歳なのだから=結婚してないなんて」という価値観に彼の方がやられて、彼との間に意見の相違が生じる方向に向かっていきました。
「あのままアメリカで暮らしていられたら・・・美容師としての道は掴んだから、あとは突き進んでいたはず。彼も大学院を卒業してインターンの仕事を頑張っていたはず。仕事もプライベートも疑いなくがんばっていた・・・」
と、人生への後悔の念と自信喪失が増すばかりで、「一人でも生きていける強い女性にならなくては」という意識が呪縛となり、伴わない現実と意識のギャップを埋めることができないまま ”苦労と試練” を乗り越えることになっていきました。
その2:「父と母を守らなければ」という意識の高まり
アメリカで暮らしていた頃、遠く離れた海の向こうにいる家族に対して、”感謝の気持ち”と”いつか恩返ししたい” とは思っていましたが、心配に思うことはありませんでした。
それが日本へ戻ると、親に対する心配の意識が高まり、まるで私が両親の保護者であるような気さえしていきました。
私が日本へ戻って来たのが30歳の時で、両親はまだまだ元気で仕事もしていたし海外旅行も楽しんで暮らしていたのですから、普通、私自身の事を中心に考えていい時期だし、それが許される状況だったというのに、日本での生活が始まった途端、私は自分のことよりも「両親のことを守らなければ」という気持ちの方が強くなっていきました。
両親からも、姉からも、「誰もそんなこと頼んでないけど」と言われるのですが、私の感覚としては「見守らなければ」と謎レベルに真剣にそう思っていました。それは、祖母の親としての感覚が私の中に入り込んできたのかもしれません。
確かに、アメリカに居た頃から祖母の思いを感じることがありました。祖母がしょっちゅう夢に出てきて、何かと守ってくれていると感じるものでした。しかし日本へ戻った途端、祖母から守られているという感覚は徐々に消えてしまい、それよりも親としての祖母の感覚へと変化していました。
私がアメリカに居る時に祖母が他界してしまったのですが、最後は娘である私の母と、祖母は80歳を前にようやく一緒に暮らすことができました。一緒に暮らす人が居て安心したのか、両親が祖母の家へ引っ越ししてきて「やっと荷物が片付いてきたね」などと話していた矢先に、突然亡くなってしまいました。
祖母を支えるために生まれてきたかのような母は、「おばあちゃんの人生は本当に壮絶だったけれど、最後まで生ききったという生き方だった。」と振り返り、「私は親に対して思い残すことはない。」と言いつつ、「だけど、何も言わないでなんで逝っちゃったの・・・って思った。」と、祖母の死を発見した時の衝撃はやはりなかなか癒されなかったようです。
それは、祖母自身も不本意だったと思います。親として娘とゆっくり過ごす日々を喜んでいた矢先だったのですから。
また、息子である叔父とは、祖母が亡くなる5年前から嫁姑の問題を対応できなかった息子との間に誤解が生じ、何故か姉である母のことも悪者にして来たため、祖母も怒って疎遠になっていました。しかし、自叙伝の本が出来上がった時に、そろそろお迎えが来ることを分かっていたのか?母親の気持ちが伝わればという思いもあったのか?その本を渡すために息子に会いに行ったと聞いていましたが、本当にそれが息子との最後でした。
祖母の他界後も、母と弟である叔父は残念ながら理解し合えない関係になってしまい、そのことで母は胃潰瘍になる程傷付いていました。(どうやら叔父も同様に傷付いていたことをことを20数年後に知ることになりました。)母のみならず、祖母の世話を一緒にしてくれていた父も叔父夫婦の無礼さに耐えてくれていました。
そういったことの積み重ねが影響したのかはわかりませんが、祖母に子供の頃から協力してきた母と、叔父夫婦の無礼に対しても寛容であり、年老いた祖母のことを大切にしてくれた父のことを「私が守らなければ!」と、祖母の代わりのように、何故か私が必要以上に責任感を感じてしまうのでした。
この私の思考と意識の変化も、私自身の幸せを生きることよりも祖母の役目を感じるエネルギーの方が強く、私と彼の関係を変えてしまった要素になったと思います。
その3:病的な断捨離意識
私がアメリカに居る間に、高齢になった祖母と両親が同居することになりました。よって、アメリカから帰国した時の実家は祖母の家でした。
同居に当たって祖母の家を改装する際に、私は巣立ったものとみなされ私の部屋の用意までは考慮されませんでした。しかし想定外に私が実家に戻って来たので、亡くなった祖母の部屋が私の部屋になりました。
私が日本を発つ以前に持っていた物は、5年の間に必要のない物に変わってしまったので、まずは自分の荷物の断捨離を始めましたのですが、アメリカ時代の質素な暮らしに快適さを覚えてしまった私には、日本の家の色使いの多さまでもが必要のない物に感じてしまい、ペンキを塗ってDIYまでする断捨離の日々が始まっていきました。
断捨離して整理して模様替えをしても、まだまだ落ち着かない。
自分の部屋以外を見渡すと、そこには祖母の物がまだまだたくさんあるではないですか!両親はそれらに疑問を感じることなく共存していましたが、家の中が生きている人間の物よりも亡くなった人の趣味が占めいていることが違和感となって、私が落ち着かない理由だと分かりました。
祖母は美的なこだわりがある人で、家の外観は純和風作りで、門から玄関まで飛び石が敷かれていて、灯篭や鹿威しの奥には茶室風の丸い窓が見えるミニ日本庭園を再現していました。家の中は茶室のような和室もあれば、暖炉がある洋室には、長く連なったソファや世界の陶器や民芸品が飾られた大きなガラスの飾り棚などがあり、遊び心のある空間作りを楽しんでいました。孫が生まれてからの祖母の人生は、仕事が生きる為のものではなく生き甲斐へと変わり、自分の人生を謳歌するが如く、国内も海外もあらゆる場所を旅行して楽しむ人生を送っていました。多分、世界の主要な国はほぼ行ったと思います。
家具・絵画・インテリア雑貨・洋服・着物・ジュエリー・バッグ・壺・瀬戸物etc.に渡るその痕跡は、亡くなって2年以上経っても、祖母のエネルギーとして残っていました。両親は、色々な方々へもらってもらったりしてかなり整理したと言っていましたが、シンプルライフを過ごしていた私には、かなりの重圧を感じました。
日本に戻ってから、自分では背負い切れない大きなものを背負わされているようで、常に「片付けないと」という気持ちに駆られては模様替えをする。という異常な断捨離意識に襲われていました。家族からは「また?」と呆れられるので、「これで落ち着けるの?」と逆ギレ気味に聞き返す。という繰り返しに、終わりが見えないことへの異常性も感じていましたが、とにかく落ち着かない感覚が私の断捨離意識を駆り立てていました。
なぜなら、私は物からのエネルギーを感じ取っていたようで、日に日に気分が重くなり、次第に自分のエネルギーがどんどん弱まっていく恐怖を感じていたからです。
また、私の部屋には、どうやらまだ祖母のエネルギーが残っていて、朝目が覚めると、”寂しさ・悲しさ・忍耐・孤独感・罪悪感” などの感情が、”わざわざ” という感じに湧き上がって来て、益々エネルギーが枯渇していきました。
このような形で、祖母が生前では癒し切れなかった ”皆には見せなかった苦しさと悔しさに耐えてきた感情” が、祖母の残した物を通して、私はエネルギーを受け取っていたようです。その結果、自分の人生を生きる気力を失っていくことに混乱し、結婚やキャリアを突き進むといった状況からはかけ離れていきました。
この病的になる程の断捨離意識には、私のエンパス能力の影響も含まれていたので、強迫観念の駆られ方は本当に異常でした。
20年にも及ぶ断捨離意識の最終章を迎えられたのは、去年の宇宙元旦のお墓参りでの叔父との遭遇で、私がスターシード・アンカーであると分かった後にチャンスが訪れました。
因みに去年は、叔父が、祖母が亡くなった時と同じ80歳になった年でした・・・叔父がその歳になることがカルマ解消に取り掛かれるタイミングだったのか?と、なんらかのシンクロがあるように思えてなりませんでした。
その4:マトリックスの圧力への恐怖
アメリカへ留学したことにより、日本では知らされていない世界のことを学んだし、見たし、経験しました。その結果、視野が広がり、価値観が大きく変わり、「もっと自由であっていい」と、私の意識に目覚めが起きました。しかし日本へ戻ってみると、私の意識の目覚めは、ことごとく打ちのめされまくりました。
親戚からかつての友人知人そして新たに関わる人々全員が、”敵対視” するように私を否定しまくってきました。それは、”村八分の袋叩き” といった表現が当てはまるような、いわゆる”出る杭を打つ” 発言や態度を投げつけてくるものでした。
お役目が始まったなど知る由もない当時の私にとっては、酷い混乱と恐怖と孤独感に包み込まれていく思いでした。
唯一の救いは、両親と姉だけは、私を無条件に応援してくれる存在でいてくれたことです。
私の「もっと自由であっていい」という意識の目覚めを、「そんな考えは間違っている。」「それは許されないこと。ダメなこと。」という真逆な意識へと塗り替えようと向こうも必死でした。
しかし、酷い混乱と恐怖と孤独感に包まれていく中でも、 ”村八分の袋叩き” の状況を客観的に自問自答するどこかとても冷静な自分が居ました。いじめに遭っている自分と、もう一人の自分が居るような不思議な感覚でした。
「母国であるのになんて生き辛いのか?」
「言葉は通じるけど、心が通じ合える人がいなくなってしまった。」
「できることならアメリカへ戻りたい。けど、今、日本を離れたら逃げでしかない。」
「私は日本のことを実は知らないことばかりだ。日本人のこともよく分かっていない。」
「この”村八分の袋叩き”現象を終わらせないと、ここから逃れらない。」
「日本のことをもっと知る必要がある。そうしないと、どこへ行っても気持ちが晴れない。」
「とりあえず分かったことは、本音を言うのはとても危険なこと。」
苦しみを嘆いているのだけど、途中から戦士のような覚悟を決めたような。これはインナーチャイルドとハイヤーセルフの会話だったのかもしれません。
「もっと自由であっていい」としか思えなくなった私は、「宇宙の真理」の意識から話す人になっていました。しかし、村八分の袋叩きされる理由が分かっていなかった私は、「え?なんでいちいち否定されるの?本当のことを言ってるだけなのに。」という悔しさが続き精神がダメージを受け過ぎて、やがてうつ病に至りました。
何をやっても「自分が自分じゃない感覚」が拭えない毎日は、生き地獄でした。30歳までの自分の姿や味わっていた幸せや充実感は幻となり、いつの間にか、社会というフィールドにプレーヤーとして立てないばかりか、観客でもAway席に追いやられたように、何も楽しいと思えない。そのような状態になるまで追い込まれました。
一応、氏名を名乗り、生年月日や住所を記入し、税金を払う収入を得る。ということをなんとか頑張りましたが、その姿は、完全に魂の抜けた人間でした。 本能的に、”村八分”というサイキックアタックから、魂だけ何処か安全な場所に隠してお役目を遂行していたようです。
うつ状態との闘いは15年以上も続きましたが、うつ状態から解放され始めた時に”村八分”体験を客観視する戦士の方の意識を思い出しました。
あれは、「”村八分”意識にやられている人々の中に入り込む潜入捜査」というお役目だったことを。
村八分意識に陥るのは、「抑圧」というマトリックスに洗脳されているから。そして、目覚めようとする人を必死になって躍起になって袋叩きにするのは、洗脳による反応であった。
ということを明確に思い出すために、あそこまで過酷な苦しみを経験したのには、単なるスターシードとしての目覚めの過程だけではなく、祖父の意識を浄化させるアンカーとしての役目も含まれていたためでもあった。と、去年の宇宙元旦の後に会った従姉妹と話している時に、「まさか、おじいちゃんの分も託されてたってこと?」と、私にしか分からない納得をしていました。
- 祖父は戦時中、軍の上の方の立場として台湾で任務していた。祖父が率いていた軍の船が遭難に遭った時、その海にはサメがいて、多くの部下を失ってしまった。
- 部下達を助けることができず自分が生き残ってしまったことに対し、祖父は自責の念に駆られ、自分も死んだつもりで生きる決意をした。
- 終戦を迎えると、祖父は政府の仕事をしていた。福田元首相とは親友だった。
等など、祖父と一緒に暮らしていた従姉妹がいろいろ話してくれる内容が、どんどんイメージングされていき、臨場感を感じながら聞き入っていました。
私が見ていた祖父は、遊びに行くと、波平さんのような出立ちで、かすれた優しい声で出迎えてくれた後、父とずっと囲碁を打っている姿でしたが、私が5歳くらいの頃、勲二等を授与されて親族全員で写真を撮った時の光景を思い出しました。
「祖父は戦後の日本政府に何が起きたかを知っている人物だったのかもしれない。もちろん、戦時中の出来事に対する自責の念もあったけれど、それだけではなく、”言えないこと。言ってはいけない何か。” 村八分の洗脳に匹敵するようなことを知っていたので、死んだつもりで生きたのかもしれない!?」
死んだつもりで生きていた祖父のエネルギーと、私が自分が自分じゃない感覚になって生き地獄を過ごした時の「抑圧に耐えた」エネルギーが合致しました。納得しました。
私は12人居るいとこの中で最年少なのですが、自分がアンカーであることに辿り着くまでは、「なぜ私だったの?」という思いに狩られました。しかし、他の11人のいとこ達を思い浮かべても、確かにこの役割は他の誰にもできないだろうなと思いました。やはり、スターシード・アンカーでなければ、このお役目を果たすことは難しいでしょう。「だから私だったんだ。」
最も辛かった事

『私が築き上げてきた人生のコアの崩壊』と『突然占領してきた偏った思考』の同時多発到来の中で生き抜くことは、至難の業でした。
- 祖母は28歳から未亡人になったけれど、子供も居たし、仕事を頑張ることで人生を謳歌することができました。
- 祖父は死んだつもりで生きたけれど、最愛の妻が病死した後に後妻と共に過ごせたし、例え極秘事項の黙秘に耐えていたとしても、国会で書記官そして弁護士として自分の能力を活かす人生を過ごすことができました。
『未亡人人生の忍耐と寂しさ&死んだつもりで生きる』という追体験は、プライベートも仕事も良縁のない不安と孤独と屈辱に耐えて生きた心地がしない状況がしっかりと作り出され、祖父母の苦しさを存分に味わいました。
私の人生がプライベートの発展が絶対に起こらない人生へと変わってしまったその始まりは、長年付き合っていた彼との突然の別れからでした。、この別れで負った深い心の傷はなかなか癒すことができず、その後も心を開けるような新たな出会いは一つもなく、結婚の機会も子供を産む機会も訪れなかったばかりか、そもそも恋愛自体がない、といった閉ざされた日々を耐えるのみで、喜びを感じられることとは無縁になりました。
決して何も行動をしなかった訳ではありません。しかし、自分の意思が通用しなくなってしまったのです。自分が望むことに関してあまりにも何も起こらないので、「呪われている」とさえ思うようになりました。やがて、「私が意思を持つことは許されないのかもしれない。」という信念が出来上がり、「これ以上傷付いて苦しみたくない」という気持ちが、無の境地を探すような導きに変わっていきました。
結婚して子供がいることが当たり前という社会構造の中で生きていられる人々には、到底理解し得ない時間だと思います。
プライベートの幸福感や充実感を得られなくなっても、自立した女性を目指して仕事をがんばる!と思って行動したのですが、美容師の世界ではアメリカで学んだということで敬遠され嫌がらせをされる、という子供じみたことが待ち受けていたり、更にエンパスの影響で酷い体調不良になってしまい、仕事を頑張るところか、美容師として働けなくなってしまいました。こうして、アメリカで掴んだ生き甲斐を感じて楽しかった美容師の仕事は、呆気なく泡のように消えてしまいました。
やるせない葛藤を超えて、企業で働くことへ切り替え、自立した女性を目指しました。しかし、仕事を蔑ろにし、責任を放棄してまで保身や派閥など理不尽なことに必死になっている人々が多い職場ばかりにしか縁がなく、生き甲斐を感じることも、収入が増えることも、キャリアが発展していくことも皆無で、年月に耐えるだけで、自立も何も出来ていないただの独身女になっていきました。
私がものすごくもがいて苦しんでいるとも知らず、世間一般的な人生を送れている人々からは、好奇の目で見られるわ、見下されるわ、不躾なことや差別的なことを言われるわ、人格否定までされるわ、耐え難い屈辱を味わい尽くしました。
この時、人々は無意識に”男尊女卑”の価値観をベースに持っていることに気付かされました。
「好き好んでそのような生き方をしている訳でなく、アメリカから戻ったら何の予告もなく、突然、手にしてきた生きる資格の全てを奪われ、「一体何が起こったのか?」と動転して動揺しているまま土俵に突き出されて、必死に自分を取り戻そうと手にしてきたことを活かすチャレンジをするも、自分の意思で人生を切り開く生き方は必ず妨害が起きてダメになり、生きる意味が分からなくなってしまいながら、生きた心地がしないまま、生きるしかないから、精一杯生きてるだけなんですけど。」
と、気持ちを表した所で精神病扱いされ哀れな目で見られるだけだと分かっていたので、矢を放たせておきましたが、本当に悔しく辛い気持ちを経験しました。
結婚して、子育てして、仕事して、家や車のローン払って、家族を作っていく人生をどれだけ多くの人が疑いなく成し遂げていることか!しかし、まさか⁉︎ 私にとっては、それは奇跡が起こらない限り叶わないことだったとは!!
先祖のカルマを解消する役割を託されたスターシード・アンカーであるが故に体験を強いられている、ということを知らなかった私は、リアルに苦しみ、いつの頃からか結婚しない理由や美容師をやらない理由を必死に考えて、ノイローゼになっていると自分でも思いました。
私には起こらない奇跡を叶えて生きている人々は、奇跡が起こらない人には何を言ってもいいと思っていることを知ることができました。「負け犬」という捉え方だったのでしょうね。まるで、こちらが傷付くことを楽しんでいるようにさえ思いました。
集団から外れた者に対する”ジャッジ”と、そのような者を否定することで得られる”優越感”を人々は無意識に発動している、ということをこの状況を経験する中で気付かされました。
私の祖母は、こういった世間からの屈辱に耐えて、孤独感や寂しさと向き合っていたのだと思います。
その孤独感や寂しさは、特に国民の祝日になると酷く大きくなりました。以前は無条件に楽しく過ごしていたお正月やクリスマスが、苦痛な日に変わってしまい、毎年、「今年こそ!変化を起こす!と挑んできたけど、結局何も変わってない。」と、何も変化がないということを思い知らされるからです。特に、年に2回もあるお彼岸が来ると、ものすごく落ち込みが襲って来ました。
そして、遂に発狂してしまいました。
苦し過ぎて遂に発狂
ある年のお墓参りで、父方と母方の両方の先祖のお墓で、お花やお水をぶち撒いて投げ捨てる!?!?!?怒りをぶちまけてしまったことがありました・・・もちろんそのあと謝りながらお墓を掃除し磨きましたが・・・
「先祖なんているのかよ💢 お墓参りしたって何も変わらないんだよ💢 私の何がいけないって言うんだよ💢 拝んだって何も教えてもくれないじゃん💢」と泣きながら、お供えするお花でお墓を叩いていました・・・柄杓で汲んだ水を口に含んでお墓に吐き吹き掛けていました・・・
しかし、私の立場だったら、発狂してしまったことは仕方がなかったと思います。そして間違ってなかったと思います。なぜって、先祖が自分でクリアできなかった無念を私に託してなんとかしてもらおうとしてた訳ですから😤
かなり酷い怒りをぶつけましたが、それでも先祖のカルマが関係している為と分かるタイミングはこの時ではありませんでした。その翌年からも相変わらず ”No変化” ”No夜明け” はまだまだ続いていきました。
辛さを耐えていくうちに
1年、2年、3年、5年、8年、10年、15年と年月を経ていく間に、自尊心はとことん傷付き、自信を失う所まで堕ちに落ちましたが、「ここまで絶対に好転しないのは、どうやらこういう人生が私の宿命なのかもしれない・・・」と受け止めるような変化が起きていきました。
そして、「結婚してないから何?子供がいなきゃダメなの?独りの何が悪い?仕事しに行って仕事しない奴になんで抑圧されなきゃいけないわけ?」と開き直ったというか、「ここまで人一倍努力して耐えて来たけど、何も変わらないのなら、だったら世間に合わせた生き方しなくていいってことじゃん。独りなんだから自由に生きていいじゃん!」としか思えなくなって、会社を辞め、実家を売ってアメリカ移住計画を進めました。
「あー、バカバカしい。いい加減にしろ😤」と、誰に向かって、何に向かって言っていたのか?抑圧に耐えなければならないと思い込んでいた意識からの解放は、とても清々しい気持ちになりました。
抑圧に耐えている自分に気付くとバカバカしくなる。そこで抑圧に屈するのを辞めると、集団意識を支配しているマトリックスから抜け出す第一歩が始まる。
自由を選んだ直後に起こるトリック
しかし、世間に合わせない生き方を始めてみたものの、自由に過ごしていいはずなのに自由にしていることに対する罪悪感や孤独感がなかなか消えないモヤモヤ期がしばし続きました。なぜなら、真の目覚めへ到達するにはまだまだやるべきことがあったからです。
次に待ち構えていたことは・・・再び浮上してくる深い苦しみとの闘い・・・それは潜在意識に深く刻まれた記憶を手放し浄化する作業でした。
もう乗り越えたと思っていたそれまでの苦しかった記憶や感情の再浮上は、自分自身では制御できないネガティブ思考に取り囲まれ、うつ病が再燃したのか?という恐れが増し、感情の大爆発が起こるまで、ネガティブエネルギーの底なし沼に引きずり下ろされていくようでした。
その時はまだ先祖のカルマが含まれた苦しみであったという理解には辿り着いていなかったので、再び湧き上がってくる苦しんだ記憶や感情を手放すことは、リアルに感情を味わって経験している最中よりも、胸の痛みを伴うほど更に苦しかったです。
うつの再燃のような苦しみは、これまでの20年間の謎の人生の停滞のあらゆる状況のフラッシュバックを起こして、自分がマイノリティの立場になったことで、マジョリティの立場にいる人々に遠慮していたことを気付かせていきました。
集団意識が少数派を痛めつける価値観は、人間ドラマを作り出す。人間ドラマはマトリックスの洗脳が投影されたものだけど、あたかも逃げ場のない現実だと思い込まされて抑圧を受け入れている!?
マトリックス意識の多数派価値観に洗脳されていると、
「ある一定のレールに沿って生きることがすべてで、それが正しいこと。」
「レールに沿った生き方ができなくなってしまうなんて、そんなことあり得ない!」
という考えに疑いを持つこともなくなるので、レールから外れてしまった人に対して「こうであるべき」という視点で言葉を発します。レールから外れてしまった人がどういう気持ちになるのか?などを考えることは一切無いようです。
「違い」を理解しないことは、人を傷つける結果を生む行為に繋がる。愛を知らない冷たい心が根底にあることを露呈する行為、と言い換えることができる。
祖父母が味わったことを追体験することで分かったこと
祖母は、28歳の時に夫が戦死し未亡人になり、子供達は片親になってしまいました。満州から無事に帰還して幼い子供達を食べさせてしっかり育て上げなくては!という思いで、祖母は必死に生きて来ました。
私の母は、父親が居ないことで「片親だから」と言われることはしょっちゅうだったそうです。戦争により父親を失ったことに対して嫌味を言う人の心理によって、幼いながらに傷付いた母は、「片親」と言われないよう必要以上に真面目に生きなきゃいけないという気持ちになり、自分を抑え世間に耐えることが身に付いていったそうです。
そして、夫を亡くした祖母は、親として子供よりももっと酷い偏見を色々言われてたと思う、とも言っていました。祖母は愚痴を吐かない人だったので、普通なら根を上げてしまう苦しみを超えて、片親という理由で子供達が不自由を感じるようなことにならない暮らしをさせてあげるために必死に生きた人生でした。
そのような状況に陥った人に、どうしたら「こうあるべき」という価値観を押し付けられるのか?
独身に対する偏見、片親に対する偏見、女性が経済力を得ることへの嫌がらせ、など ”差別意識” や ”ジャッジする思考” はマトリックス意識の洗脳で、その洗脳は、本音と建前という嘘でうまく生きてると思わせ、村八分の袋叩きに加担させているのです。これは、時代が変わっても形を変えて行われていることだと思います。
マトリックス意識の洗脳が生み出すものは、『憎しみ・怒り・悲しみ・孤独感・罪悪感・被害者意識 etc.』といったネガティブな思考や感情。こうして地球の波動を重くしている。
私に課せられたお役目が開始されてから、ネガティブ感情と思考にハマり込んでいく状況に追い込まれていきました。年月も内容も極端過ぎるほど酷く深く長かったので、何度もこの世から消えてしまいたいと思い悩みましたが、なんとか耐え抜くことができ、そのおかげで、しっかりとネガティブというものを把握することができました。
祖母が味わった村八分にされる苦しみも、祖父が味わった沈黙の苦しみも、その根本要素は、形は違えどどちらもマトリックス支配から波状したものだと分かりました。
『スターシード・アンカー【後編】先祖のカルマの清算に向かう取り組み」へ続く・・・
感情の大爆発が起きた時の話はこちら